第九章 姿を消した日
その日は、驚くほど普通の一日として記録されている。空は晴れ、世界の調和指数は安定し、システムは何一つ異常を検知していなかった。〈彼〉が完全に姿を消したその瞬間、世界には悲鳴も、雷鳴も、劇的な沈黙さえもなかった。
【記録:聖区メインゲート警備員】
「特別なことは何も。いつものように、先生は散歩に出られるのだと思いました。コートも羽織らず、手ぶらで。ただ、門を出る直前に一度だけ立ち止まって、空を見上げたんですよ。まるで、そこに書いてある文字を読み取ろうとするみたいに。私は会釈をしましたが、先生は気づかなかったのか、それとも僕という人間をもう見ていなかったのか……そのまま、光の中に溶けるように歩いていかれました」
【記録:教団中央サーバー管理ログ】
「午前十時十四分。〈彼〉のバイタルサインがネットワークから消失。通常、これは『死』を意味するか、通信機器の破壊を意味する。だが、直後にシステムが自動的に『非公開モード』へとステータスを書き換えた。我々が操作したのではない。システム自身が、彼の不在を『意図的な隠遁』として処理したんだ。神がいなくなったことを、神の目自身が隠蔽したんだよ」
【記録:近隣の主婦】
「噂では聞いていましたよ。でも、いなくなったからって何が変わるわけでもありません。ほら、今日の献立も、子供の塾の送り迎えの時間も、全部この子が教えてくれるもの。先生がいなくても、先生の『教え』は指先の中にありますから。寂しいかって? さあ。考えたこともありませんでした」
混乱が起きなかったわけではない。側近たちは血眼になって彼を捜索し、反対派は「教祖暗殺」の陰謀論を唱えた。数日間、ネット上では数百万の憶測が飛び交い、世界は一瞬だけ熱を帯びた。
しかし、奇妙なことが起きた。
〈彼〉が不在であるという事実が、かえって信者たちの信仰を強固にしたのだ。
「先生は、私たちが自立するのを見守るために、肉体という制約を捨てたのだ」
「姿が見えないということは、あらゆるところに偏在しているということだ」
人々は、勝手に答えを作り出した。皮肉なことに、生身の〈彼〉という「ノイズ」が消えたことで、システムとしての宗教はいよいよ純度を高め、完璧なものへと変貌していった。声明も、説明も、遺言もない。その「巨大な空白」に、人々は自分たちが望む理想の神の姿を、勝手に投影し始めた。
ある者は、その日、街の路地裏で〈彼〉に似た男が、ただの石ころをじっと見つめているのを見たと言った。またある者は、彼が遠い海へ身を投げ、データという波の一部になったのだと語った。
だが、真実はもっと退屈で、もっと残酷なものだったかもしれない。彼はただ、自分という存在がなくても回る世界を、一度自分の目で確かめたかっただけではないか。そして、自分が本当に「不要」であることを確認し、安堵してどこかへ消えたのではないか。
世界は止まらなかった。
神がいなくても、信仰という名のプログラムは、狂いなく走り続けている。 その夜、街の青いランプはいつもより少しだけ強く輝いているように見えた。まるで、主(あるじ)を失った飼い犬が、必死に自分の存在を誇示しているかのように。
(つづく)


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